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Wednesday, 06 January 2016

海南神社

_1010706_1010702主祭神は、藤原資盈(すけみつ)。富士山の貞観大噴火(864 年)の頃、平安京が開かれて 70 年という節目の年、清和天皇の御代に皇位継承を巡って大納言伴善男がめぐらした謀に加担しなかった為、讒訴(ざんそ、ありもしない罪をでっちあげること)により、左遷されて九州の大宰府に向かうその航海中に嵐に遭い、漂着したのが三崎港だったという大河ドラマ並の由縁を感じる場所である。資盈は、三崎に留まり、当時三崎の人々を悩ませていた房総の海賊を平定し、また漁業を振興したので、866 年に没した後、祠を建立して祀ったのが始まりだそうである。参拝を済ませ、御札やお守りを買うことが出来た。三が日を外したが、それなりに人が出ていて寂れた神社を想像していた筆者はその活気に「おぉ!」と思ったが、東京の神田明神の様子をテレビで見て、違う世界なんだと気付いた次第。だが、境内は人も多く、おみくじを引いたが、珍しく大吉だった。(注、詳しく調べたわけではないが、864 年に左遷されたという記述が多いが、応天門の変を指すのであれば 866 年であるし、源信の失脚を狙って謀反の噂を流したのは、864 年だが、この時には取り上げられなかったらしいから 864 年に左遷されるというのは?である。また、大宰府に向かう途中なのか太宰府から脱出した途中なのか、、、の記述にばらつきがあるが、平安京付近から九州に向かっていたと仮定すれば、黒潮(日本海流)に逆らって船でと言うのはやはり?であり、それで流されて三浦半島へというのはあながちハズレでもないような気もする。)
(DMC-GM5, G Vario 12-32mm/f3.5-5.6 ASPH., Capture One 9 PRO, PS CC)

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Comments

野本さん、連日のブログで三崎の様子を楽しませて頂いております。昨夏に息子と訪れた折は夜祭りであった故、昼間に見える三崎の街の在り様が新鮮に感じます。次回は、日中にゆったりと三崎の街を訪れてみたくなりました!

海南神社・・藤原資盈の由縁・・の中で、どうやら地元には、”漂着”に関して別の見解があるようですよ。当時、三浦半島と房総半島は、平高望を初代とする元皇族の坂東平家が統治していて、中央での政争で優勢にあった藤原家との対立が激化していた最中であり・・・資盈にしてみれば自身が讒訴を蒙ることになってしまった訳を鑑みると、中央からの距離があるという事だけでは、左遷先が安穏の居には成り得ず、安全のための「庇護」が必要だった筈・・との見方から、”漂着”とはいうものの・・といった見解が出ている模様・・それは、同時期に藤原資盈の嫡子が、やはり、房総半島へ”漂着”・・していたからのようです。それ以降、高望の跡を継いだ良文の時代には、房総半島を治めていた平将門(良文の甥)の処に菅原道真の一族も・・だそうです。

あははっ・・それにしても、野本さん、洞察が鋭いのは相変わらずで・・つい、私も引っ張られてしまいますから、あまり好奇心をそそられるものをブログには・・とお願いしたくなって来てしまいます・・が・・やっぱり、歴史っておもしろいですね!

Posted by: ハッシー | Friday, 08 January 2016 11:54

ハッシーさん、コメント有り難うございます。

なるほど、、、単純な難破 - 遭難話では無いのですね、、、意図的に、、なかなかハッシーさんの読みが深くて感心しております。
当時の房総及び三浦半島辺りって、もう都から遠く離れた未開の地、、、みたいなところだったのではないかと思いますが、人々の生活は存在していたのですから、感銘を受けます。

アタシは、歴史はチンプンカンプンですが、仰る通り太古のロマンに遊ぶような、、、知的な部分も少しは欲しいです、、、(´Д`;

Posted by: 野本 巖 | Monday, 11 January 2016 15:24

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